肥満論
written byとぴあ

肥満の原因は約7割が生来の遺伝であるのが定説!ところがその肥満者を自己管理のできない怠け者だ云々と馬鹿にするのは、黒人を肌が黒いと蔑視するのと同様に社会的差別!確かに不健康な肥満は改善しなければならないけれど、それ以外で肥満者が不利益を蒙るのは概して社会的差別が存在するから!つまり太っていること自体が悪いのではなく、太っていることを醜いと感じ蔑視する社会的価値観こそが問題なのです!この社会的偏見があるから逆に健康を害してまでも痩せることに血眼になる愚かな女性が増加し、まんまとエステを太らせている!
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肥満のセオリー
モードとしての体型
  1. グラマーからウルトラスリムへ    
  2. 社会的価値観の反映としての体型
  3. 社会的価値観の反映としてのウェスト
  4. 通俗エコロジーと痩身志向的価値観
  5. ‘おデブ系の時代’
  6. 体型の3類型:スレンダー・グラマー・プランパー
  7. キューバの境界線──顕わす身体/隠す身体
  8. なぜ女性は身体にこだわるのか?
ダイエットジレンマ
肥満のカリカチュア
  1. デブ総決起集会!?
  2. そこヘン日本人1
  3. そこヘン日本人2
  4. そこヘン日本人3
  5. そこヘン日本人4
  6. そこヘン日本人5
  7. Bカップの小学生──モリクミさんのこと
  8. ビックレディースクラブ
  9. 石ちゃんの初デート
  10. 食べ放題論
  11. 誇示的消費の欲望論
  12. ブス>デブの論理
  13. ムカつく女ども!?
  14. そんなに私が悪いのか!?
  15. ‘デブ’映画(男性編)
肥満のオブラート
  1. 太目でもオッケー!?
  2. 自己矛盾を孕む‘ぽちゃ・ぽっちゃりサイト’
  3. 電話面接でのエピソード
  4. ‘からだ’にまつわるオノマトペ
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‘おデブ系の時代’
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今週の『アエラ』(2000.12.4号)に、ファッションジャーナリストの藤岡篤子氏による「新世紀はおデブ系時代」という記事が載っています。そのキャプションにこうです。「パリ、ミラノふっくらモデルが話題独占」と。そのモデルとは22歳の英国人ソフィー・ダール!
(注1)藤岡氏は彼女を「『グラマー』という範疇をはるかに超える、LLサイズのウルトラボディを持つ女性」と称しています。

トピアの会の観点からすると、その'豊満なボディ'と言ってもまだまだ甘いと感じますが(^^;)、いわゆる'12サイズのモデル'
(注2)として、従来のファッションモデルからすると、確かに随分豊満で型破りです。

国内のファッション業界に対して、「'やせ過ぎ'のモデルを使わないように」という思い切った自粛勧告を英国のブレア首相がしたというニュースをお伝えしたことがあります。
(注3)それは'やせ過ぎ'のモデルに憧れて食事制限をして拒食症に陥る青少年が増加した英国内の事態を懸念したからだと云われています。

ブレア首相以上に、ソフィー・ダールを全裸にして香水「オピウム」のポスターに起用したサンローランのクリエイティブ・ディレクター、トム・フォード氏の次の言葉は現代という時代にあって非常に慧眼(けいがん)であると思います。

「オピウムはリッチで禁断なもの。やせて貧弱なモデルを使いたくなかった。食べ物やセックスや愛、すべてに満たされた女性。自分自身を何も否定しない。挑発的でセクシーな女性像をイメージした」(WWD9月19日、インタビュー記事)。
(注4)

ELLEもまた、「ボディーフィットしたロングドレスを着て、話題の肉感的なモデル、ソフィー・ダールが登場した」ラクロアのショーを評価して、「豊かさはモダンで、コンテンポラリーであるという賭に、ラクロアは成功した」と好意的です。
(注5)

ソフィー・ダールに限らず、藤岡氏が指摘するように、山本耀司のパリ・コレクションの招待状にはまるでルノワールの裸婦のような豊満な女性が描かれています。

このようなことから藤岡氏は「新しい世紀を迎えたコレクションでは、おデブ系がひとつのキーワードのようにも思える」として、今「なぜ、おデブ系?」かというとそれは、80年代の「ボディコンシャス」への回帰の傾向があると指摘し、次のように述べています。

「八○年代は、豊かな経済力を背景に自然志向が高まった時代だった。贅沢な食事をしながら、一方ではダイエットに精を出した。」「化粧もスキンケア重視、ファッションもそれと歩調を合わせるように、飾りを省いたシンプルな服が主流となり、ファッションの原点は、ボディーそのものであるという認識が定着しつつあった。」「体が美しく健康であってこそ、エリート、という鼻もちならない動機ではあったけれど、あの時代の美点は、『美しい体とは、やせていることではなく健康であること』としたことだった」「この健康ブームの立役者は、ヤッピーだった。」

しかしあの肩にパットを入れたシルエットは、'自立する女'が求められたあの時代の象徴だったのに対して、'ボディコンシャス'と言っても、現代の着こなしは、パワフルであるよりも多分に官能的で「体そのものに女性の魅力を求めていく気配が濃厚に漂う」と藤岡氏は指摘しています。

そして藤岡氏は次のように述べ、記事を結んでいます。

「こういったデザイナーたちの提案は、物質的な欲望や名声を追いかけるより、まず豊かな体の持つ魅力に気づこう、すべてを取り払った後、残るのは肉体しかなく、それが美しくなくてどうする、というメッセージ性に富んでいる。」「色んなものを追いかけ手に入れてはみたけれど、やっぱり服やバックでは満たされない心、飾り切れない体を感じつつある女性たちにとって、再び自分自身の体と向き合う時代になってきたのかもしれない。」

エステやダイエット食品のセールストークとして、よく「9号の洋服が着られるように痩せましょう」と言われることがありますが、これは服に体を合わせるような倒錯行為を勧めているようなものです。しかしようやくファッション界もそれが倒錯したことなのだということに気付き始めたのかも知れません。

つい最近もジャスコやダイエーなどの大手のスーパー・量販店にまで、ブランド商品の偽物が出回り、自主回収されるというニュース
(注6)があったばかりであり、日本の女性たちの幼稚な'ブランド志向'も少しは見直される兆しがあるのかも知れません。

(注1)
Sophie Dahl Unofficial Pages
The Lard Biscuit:Sophie Dahl
(注2)
1997年のニューヨークでのファッションショーで、英国サイズで14(日本では13号)のグラマラスモデルとしてデビューした後、1998年から、いわゆるボクササイズを始めて、おそらく英国サイズで8の体型になるまで、いわゆるボクササイズで痩せてしまったという記事があります。「ソフィー・ダール、ダイエット成功で得たものは?

(注3)
「英国ブレア首相の注目政策!」(2000.7.18)

奥さんの出産のために日常の政治業務を減らしたことで注目された英国のブレア首相が最近注目すべき政策を打ち出しました。

それは英国内のファッション業界に対して、「'やせ過ぎ'のモデルを使わないように」という思い切った自粛勧告です。この政策の意図は、'やせ過ぎ'のモデルを見て憧れて彼等のようになろうと、食事制限をし結果的に拒食症に陥る青少年が多くなっている問題を解決しようというものです。

上から命令するのはどうかとは思いますが、依然として「とにかくやせていれば良い」「太っていることは悪」という短絡的な意識が大勢を占めている日本人よりも、英国人の意識は格段に高いことは間違いありません。

2000/6/23 産経新聞 朝刊

(注4)
藤岡氏の記事からの重引。
(注5)
ELLE
(注6)
<ジャスコ>ブランド衣料品の一部が偽物の疑い 自主回収へ [毎日新聞11月24日]

(2000.11.27初出に加筆)


体型の3類型:スレンダー・グラマー・プランパー

女性の体型にはバリエーション(注1)があるのは言うまでもありませんが、「理念型」として、概ね次の3つに分類できるのではないでしょうか。

(1)スレンダー(スリム)体型
(2)グラマー体型
(3)プランパー体型
(注2)

別稿で指摘したことですが
(注3)、英語(米語)の‘glamour’という言葉は、必ずしも「肉体的な豊満さ」を意味するわけではなく、ある種の「魅力」「魅惑」「(特に女性の)うっとりさせる美しさ」「性的魅力」という意味が含まれているものです。しかし日本語の「グラマー」という言葉ですぐに思い浮かぶのは、マリリン・モンローのような、いわば‘ボンキュボン’のバストとヒップは大きいものの、ウエスト(注4)は締まっている体型です。

それに対して、「プランバー」(plumper)は、簡単に言ってしまうと、胸もお尻も大きいだけでなく、お腹(下っ腹=belly)にもお肉(脂肪)がたっぷりついている体型です。

つまり「グラマー」と「プランパー」を区別するのは、お腹にお肉(脂肪)がついているか否かだと言えるでしょう。従って、後者は差別的には‘デブ’
(注5)と呼ばれるわけですが、いくら胸やお尻が大きくても、お腹にお肉(脂肪)がついていなければ、‘デブ’と蔑称されるのではなく「グラマー」として賞賛の対象になります。

ただし「プランパー」という言葉は、‘丸々と太った’体型の持ち主であり、‘豊満でふくよかな’といった積極的な意味が含蓄されており、‘デブ’のような否定的な意味あいの差別用語とは違います。
(注6)

これらの豊満で太目な体型に対して、総じて、バスト・ウエスト・ヒップその他二の腕や太腿などに相対的に脂肪がついていない痩せた細目の肉体は、「スリム」(slim)、「スレンダー」(slender)体型に分類することができます。
(注7)

現代の日本における女性たちの多くが望む‘理想の体型’は、胸は比較的大きい方が良いけれども、お尻は相対的に小さく、ウエストは極力細い方が良いというのが一般的な傾向のようです。

しかし3つの体型の内、どれを好むかは、まさに日本国憲法において保証されている「思想信条の自由」であり、プランパー体型を好むからといって、‘お前、あんなデブを好きだなんて、変なんじゃないのか!?’と、変態扱いされるのは、謂れのない差別だと言えるでしょう。‘蓼喰う虫も好き好き’(Thereis no acounting for tast.)という言葉がありますが、各人の趣味・嗜好は説明がつくものではありません。

百聞は一見にしかず、次の画像は、プランパー系AV女優として有名なメラニー・アントン(Melanie Anton)の画像ですが、1)は、まだ彼女がグラマー体型であった頃のもので、2)や3)は、プランパー体型になり新人AV女優として初々しい頃のものです。これ以後、4)は、もっとお腹により一層、,皮下脂肪
(注8)がたっぷりついて、まさにAV女優として‘脂’がのり人気がでました。(注9)

1)グラマー体型
2)プランパー体型1
3)プランパー体型2
4)プランパー体型3

(注1)

‘からだ’にまつわるオノマトペ
(注2)
プランパー体型はさらに1)りんご型 2)洋ナシ型に小分類できます。
(注3)
グラマーからウルトラスリムへ
(注4)
社会的価値観の反映としてのウェスト
(注5)
ブス>デブの論理」の特に(注2)参照。
(注6)
因みに、最近よくネット上で使われている‘ぽちゃ’とか‘ぽっちゃり’に当たる英語はplumpが適当かもしれませんが、‘丸っこく可愛らしい’という感じを含む英語のchubbyという言葉もそれに対応しているように思います。

ただし、‘ぽちゃ’とか‘ぽっちゃり’とか‘激ぽちゃ’という言葉を使う人たちの多くは、内心において、「‘デブ’という言葉は断じて使ってはならない」という思いが強く、かえってその言葉には、そのような人々の屈折した差別意識が端無くも反映し含蓄(コノテート=共示)されてしまっていると僕は感じているので、あまり使いたくありません。(オブラートとしての‘ぽちゃ’)
「自己矛盾を孕む‘ぽちゃ・ぽっちゃりサイト’
(注7)
風俗の世界には‘スリムグラマー’という言葉があるそうです。この体型は、普通、他はすべてスリムなのに、胸だけが非常に大きい‘巨乳’の娘を指すようですが、往々にしてシリコン入りが多いらしいです。

(注8)
ダイエットと美意識の問題
(注9)
彼女出演のビデオ作品は、次の所で購入できます。
‘Big Busty41’
‘Plumpers at Sundance Spa’
http://toppa.h.fc2.com/video/05.html


(2001.8.14初出)

キューバの境界線──顕わす身体/隠す身体

現代日本の一般の若い女性が、自らそうなりたいと憧れる理想の体型は、概ね全体のシルエットはスレンダー体型で、ウエストは極力細い程よいのですが、バストは、大き過ぎるのは嫌われるとしても、それなりに大きい方が好まれるのに対して、お尻が大き過ぎると、‘下半身でぶ’としてかなり嫌われるようです。

日本の男性はと言えば、いわゆる‘巨尻’よりも‘巨乳’に目が行く人のほうが多いというのが一般的な傾向のようです。だから、風俗では、概ね全体はスリムであるのに、胸だけはかなり‘巨乳’の、いわゆる‘スリムグラマー’などという体型が好まれるわけです。
(注1)

ところが、キューバの男性たちが概ね好む女性は、‘ヒップアップ’した大きなお尻でありながら、余り‘巨乳’ではない体型の持ち主だそうです。これは、いわば‘スリムグラマー’体型の‘巨尻’バージョンであると言って良いでしょう。

五輪において、キューバのバレーボールチームの女子選手には結構このタイプが多かったのですが、競技上、ムチムチな下半身は鍛えられているから大きく、胸は邪魔になるからそれ程大きい女性がいないのだと思っていました。しかしそのような理由より、もしかするとキューバ男性の嗜好が多分にキューバの女性たちの体型の形成に影響を与えているのかも知れません。
(注2)

大尻がもてるのでキューバの女性たちはピタッとした超ミニのスカートをはいて、お尻をモロ、プリプリさせて街を濶歩し男性たちの目をひいているのだそうです。

好まれる体型が、各時代
(注3)だけでなく各地域によって相対的なのだということの一つの例証と言えるでしょう.。

男性が女性の肉体のどこにエロチックな魅力を感じるのかも、各時代や各地域によって、相対的です。『乳房論』の中で、マリリン・ヤーロムは、次のような興味深い指摘をしています。

「多くの人たちにとって、特に男性にとって女性の乳房は性的なアクセサリーであり、女らしさの輝ける宝冠だ。だが世界的には、乳房は必ずしも性的な意味を持つと見られていない。有史以来、女性が乳房を覆うことなく暮らすアフリカや南太平洋では、西洋のように乳房にエロティックな意味があるとは考えてこなかった。それに、中国では纏足、日本ではうなじ、アフリカやカリブ海諸国では臀部と、西洋文明以外の地域にはエロティックな意味合いを持つものがそれぞれ独自に存在する。だが、共通点はどれも、ちょうどフランスの詩人マラメルの『包み隠すエロティック』という言葉が表すように、性的興奮を間接的にそそる肉体の一部であるということ。」
(注4)

「見えそで見えない」、いわゆる‘チラリズム’という焦らしのテクニックによって男たちの目を釘付けにし彼らを発情させる、ストリッパーたちも、‘エロティシズム’の本質をよく理解しているのだと思います。「包み隠す」
という作為によって、妄想が募り‘エロス’が醸成されるということ、換言するなら、「エロスとは発情のための文化的装置(シナリオ)」なのであり、‘発情’とは、自然的な行為ではなく、文化的行為だと言うことができます。(注5)

この点で興味深いのは、生来毛深いキューバ女性たちの多くが、そのミニスカートのラインにピッタリ沿うようにして見える脚の部分の毛を剃っているのだということです。チラッと見える、ミニスカの中に隠されている脚の毛が生えている身体の部分と剃っている脚の顕われている身体の部分とをはっきりと分けるライン(境界線)にキューバの男性たちはたまらない程そそられ発情し、‘エロス’を感じてしまうのだとか…。(注6) 

ところで、このいわば‘キューバの境界線’は、作為の上での作為です。ミニスカが身体を包み隠す第一段階目の作為だとすれば、一応、包み隠されているものの、スレスレの所でチラッと見えるように仕組まれた‘キューバの境界線’は第二段階目の作為なのです。ここに、「衣服」の本質を見ることができます。鷲田清一氏の「衣服論」を参照しましょう。

「結局、衣服は、手練手管を使って人間の身体のなかにある秘密の部分、大事な部分、淫らな部分、あるいは隠しておかなければならない部分をでっち上げて、そしてまたそれに近づくプロセスも、重ね着したり、スリットを入れたり、フリルやレースをつけたりと、ますますゴージャスめいた演出をして、本当に隠されなければならないものに意識が向かないようにする装置なのだということになります。つまり、一言でいうと、『本当に隠されるべきものは何もない』というか、『背後には実は何もない』ということを隠す装置、真に隠されるべき事態を隠しておくために、別の隠されるべきものをでっち上げる装置として、隠蔽というテクニックを中心とする衣服という装置を考えることができるのです。」(注7)

‘スカートの下の劇場’(上野千鶴子)ならぬ『ドレスの下の歴史』と題する、下着と身体の社会史的研究において、ベアトリス・ファンタネルが記述するコルセット等の衣装は、まさに身体を過剰に隠すことによってかえって、男性たちの欲情を駆動する文化装置だということがよく判ります。

「一八四〇年のコルセットとクリノリン[スカートにふくらみを持たせる枠]をつけた女性は、いかにも何もできないように見える。その姿が不自然であるからこそ、よけいに魅力的に見えたのである。その身体は、フリルとリボンだらけの布地の山に埋もれている。紐で縛り、ホックやボタンをかけられて、彼女は身を委ねることを拒んでいると同時に、すすんで身を任せている。そのような見かけ倒しのかさばった衣装の下には、男たちが期待するような柔らかい白い裸体が隠されているのである。」
(注8)

(注1)

体型の3類型:スレンダー・グラマー・プランパー
(注2)
「身体像の形成というのは女の子にとっては他者が、もっとはっきりいうと、男性が与える身体像を内面化していくプロセスといえます。身体像は、自力で自己調達できません。何らかの形で社会が与えるものですけれど、女の場合はそれは非常にはっきりしていて、男性の与える価値によって決まります。」上野千鶴子『スカートの下の劇場──ひとはどうしてパンティにこだわるのか』河出書房新社、162頁。
なぜ女性は身体にこだわるのか?
および
なんつったって、ダイエットには恋愛が一番!」も参照。
(注3)
社会的価値観の反映としての体型
(注4)
マリリン・ヤーロム『乳房論──乳房をめぐる欲望の社会史』トレヴィル、平石律子訳、6頁。

(注5)
上野千鶴子『発情装置──エロスのシナリオ』筑摩書房
(注6)
日本テレビの番組企画でキューバのテレビ番組に出演した女優の小林聡美さん談。
(注7)
鷲田清一「モードの狡知」『顕わすボディ/隠すボディ』ポーラ文化研究所、37頁。
(注8)
ベアトリス・ファンタネル『図説ドレスの下の歴史──女性の衣装と身体の2000年』吉田晴美訳、原書房、55頁。

             *   *   *

なお、ネット上でも「ミニスカ論」が読めます。学者さんたちのジャーゴン(専門用語)を弄した言説に思わず苦笑してしまいますが、ご紹介します。

「見えないように裾を下げようとするにもかかわらず、自然に上がってきてスカートの中身が見えそうになる。何物かを隠そうとする意志と、それに逆らって真理を暴こうとする運動。その緊張感溢れるダイナミズムに知覚弓となって参与する第三者としての私。この三者関係のただ中にこそ、ミニスカへと欲情を固着させるオートポイエーシス装置が構造化されているのである。」(森岡正博「なぜ私はミニスカに欲情するのか」『アディクションと家族』17巻4号、373頁)

「私の欲情装置は、私がそこから決定的に遠ざけられているところの何物かを包むものの姿を、一方において露出させ、他方において無理やり隠すというダイナミズムを見せつけられたときに、自動的に発動する。」(森岡、375頁)


「女性のミニスカは…(中略)…男の快楽刺激を発動させるための単なるトリガーとして利用されたにすぎないのかもしれない。だとすれば、ミニスカへの欲情とは、それを履いている女性自身とはまったく無関係な、男の頭の中の自閉回路であることになる。この意味においては、男は女を道具として利用していると言える。いや、生身の女は実は必要ですらない。」(森岡、375頁)

「森岡は、女性/女体の記号化を通して、己が欲情装置としての『自閉回路』を、まさに『自閉的』に構築する<力>を持っている。」(沼崎一郎「ミニスカートの文化記号学―<男力主義>による男性の差別化と抑圧」 『現代文明学研究』第4号、301頁)

「しかし、現実の社会関係に目を転じ、『生身の女』と<この私>との関係を直視するならば、ミニスカが、男性を差別化する記号として、<この私>の男性性(の欠如?)を逆照射することに気づかざるを得ないのである。」(沼崎、304頁)

「ミニスカートは、女性差別であるばかりでなく、男性差別でもあるのだ。」(沼崎、309頁。)

「ミニスカをまとうことが好きな私は、しかし、一部のイスラム教徒の女性が着用する頭からすっぽり全身を覆う服『ブルカ』も好きだ。男性のまなざしから逃れた身体であることは、どんなに自由だろうかと羨ましく思う。『ブルカ』がイスラム文化の女性差別の象徴のようにいわれることもあるけれど、その問題点は(中略)、『強制されること』にあるのであって、服装自体に問題があるのではない。日本でも、公の場では成人女性は化粧しなくてはならないし、『女らしく』装うことが要求される。それらは、やはり『強制されている』。」(村瀬ひろみ「『性的身体』の現象学──『ミニスカ』からみる消費社会のセクシュアリティ構造」 『現代文明学研究』第5号:357-358頁。)

「 ミニスカと『ブルカ』の間を自由に行き来できないだろうか、と私は夢想する。 」(村瀬、358頁)

 「そして、男性たちが『性的身体』を否応なく引き受けることになる日、女性のまなざしから逃走したいと願うときが来るのだろうか。」(村瀬、358頁)

(「キューバの境界線」2000.11.8初出に加筆)


なぜ女性は身体にこだわるのか?

なぜ女性は身体にこだわるのか?既に引用しましたが
(注1)、いわゆる‘フェミニスト’の社会学者・上野千鶴子氏は、女性の身体像は男性の価値観に規定されるとして、こう述べています。

「身体像の形成というのは女の子にとっては他者が、もっとはっきりいうと、男性が与える身体像を内面化していくプロセスといえます。身体像は、自力で自己調達できません。何らかの形で社会が与えるものですけれど、女の場合はそれは非常にはっきりしていて、男性の与える価値によって決まります。」
(注2)

実は、上野氏はこの文章に続けて段落も変えず、こう断定していました。

「男の子の場合には、女によって身体像が与えられることは考えられません。」

ここでは、いわば‘ジェンダーの非対称性’を上野氏は強調しているわけですが、別の著作や論文においても、‘女性の「身体への疎外’」とともに、‘女性の「美への疎外」’および‘男性の「美からの疎外」’を説き
(注3)、持論である‘性愛の非対称性’(注4)や‘ジェンダーの非対称性’(注5)についての理論展開を精力的に行っています。

ところが、上の引用文のそのすぐ後、段落を変えて、あっさりと「ただ最近は、女性の視線だとか女性の評価によって影響を受ける若い男の子が出てきたようです」と、彼女はその事実を認めてしまっています。

しかし、このようなことは最近だけの現象ではなく、若干の文化人類学的な知見があれば、同じ‘フェミニスト’のナオミ・ウルフも『美の陰謀』で指摘しているように、次のような事例をすぐに想起することができます。

「『美』は、女の側がそれを身につけ、男の側は見るだけというものでもない。たとえばナイジェリアのウォーダーベ族は、女が経済権を握り、男の美を追求することに夢中になる部族だ。ウォーダーベの男たちは長時間一緒になって念入りに化粧をし、女が審査するビューティー・コンテストで競い合う。つまり、挑発的なボディペインティングや服装をして、腰を振り、誘惑的な身振り手振りをしてみせるのである。」
(注6)

確かに、上野氏があっさりと認めているように、今日、男性の身体が女性の視線に規定される傾向が高まって来たのは事実です。彼女も編集委員の一人である岩波社会学講座の『ジェンダーの社会学』に収められている論文
(注7)で、加藤まどか氏は、「『語られる身体』のジェンダー差」という点で、女性誌(『an・an』)の方が男性誌(『POPEYE』)よりも量的に圧倒しているにしても、しかし、それでも「男の子の場合には、女によって身体像が与えられることは考えられません」という上野氏の断定に反して、反証する事実を挙げています。

すなわち、男性誌『POPEYE』に見られる記事や広告における男性読者への語りかけ、すなわち‘異性(女性)の視線’を意識して自分の身体を手入れし管理することを啓蒙するその言説から、‘女性の視線’が男性の理想の身体像──‘清潔な身体’の形成に影響している事実が指摘されています。

例えば、こんな具合に──

「最近の女のコは初めて男のコと会ったとき、その肌を見るという。……男のコの第一印象を決める要素の中に『肌』が重要な位置を占めるに至った、というわけなのだ。……」(『POPEYE』」1994年10月10日、228頁、「Men's Beauty」)

ニキビ面では女性に嫌われるからスキンケアを怠ってはいけないとか、女性にモテるためには、シャンプーしたサラサラヘアーがいいのだとか、体の臭い消しに爽やかな柑橘系のボディローションが宣伝されたり、多分に‘女性の視線’を意識して‘清潔な身体’を作り上げる必要性が説かれている事実があるわけです。

また加藤氏は、女性誌『an・an』の言説の分析によって、単に(1)‘異性(男性)の視線’だけではなく、(2)‘同性の視線’や(3)遍在すると仮構される‘無数の他者の視線’を標準化した‘標準の視線’に媒介さた(4)‘自己の視線’によって構成される、いわば‘視線の構造’が、女性自身の理想の身体像──‘美しい身体’を形成している事実を明らかにしています。

例えば、こうです──

(1)異性(男性)の視線──「男がひと目惚れするポイントが高いのが、顔に続いてバストと脚、女のボディ全体の中で最も女らしいシルエットを印象づけるバストと脚は、男にとって最大のチェックポイント。……男の視線が集中するところにこそ丹念なケアを。」(『an・an』1994年5月27日、12頁、「男は女のどこを見てひと目惚れするのか」)

(2)同性の視線──「……異性の視線だけでなく、同性からの厳しい視線も受ける髪。いつもナチュラルな美しさで輝いている髪の持ち主は羨望の的だ。」(『an・an』1994年6月24日、6頁、「髪の手入れは女の生きがい」)

加藤氏のコメント──「女性は身体の美に関する性別規範を内在化するため、美しい身体でありたいと願う。自分の美しい身体に引きつけられる男性の視線を感じることは、女性にとって快感である。また、そのような視線を浴びる女性の身体は、他の女性にとっては羨望の対象になる。」
(注8)

だから、逆に、その‘美しい身体’によって差異化され析出される自分自身の‘醜い身体’には‘不快’感を抱くし、異性からも同性からも‘侮蔑(ぶべつ)’の視線を浴びるように感じ、怯えてしまうことになるわけですね。

(3)標準の視線──『an・an』は、例えば「抱かれてみたいタレントベスト10」といった読者アンケートが有名ですが、このようなアンケート技法や誌上座談会とか有名タレントの意見によって仮構される「遍在した無数の他者の視線」が集約されて「標準化された視線」として,読者に提示されます。

「……さりげないしぐさのたびに、手は視線を集めているから、きちんとトリートメントして、美しい手でいたいですね。」(『an・an』1994年1月21日、手と爪のトリートメント剤の広告(ニベア花王))

(4)自己の視線──「毎日、夏が近づくと気になるのが体のライン。……痩せれば気持ちも明るくなって、ずっと活発になれる。それは誰もがわかっていることなんだけれど……。自分の生活を見直して、自己コントロールできる意見をもつことが成功の秘訣のようです。……ダイエットに最適の季節、今度こそ痩せる決心を実らせたい。」

加藤氏のコメント──「読者は、自分の身体をコントロールする自己の視線を持てと促される。ここで促される自己の視線は、『理想的な身体像』に照らして身体を眺める、無数の他者の視線が折り返されたものである。」
(注9)

誌上対談での発言──「……本多「もちろん太っていたって仕事の能力の高い人はいます。ただ、自分自身をきちんと管理できる、仕事もできる人間です、とより強くアピールしたいときには、健康的にコントロールの行き届いた体型という印象を与えるのも大事でしょう?そういえば、太っている人が『痩せたい』と真剣に思う時は自分をワンランク上げたいという意識に目覚めた時なのね。仕事であれ、恋愛であれ。」(『an・an』1993年9月10日、9頁、「なぜ『痩せたい!』のかを、もう一度考えてみよう」──本多京子氏(医学博士・管理栄養士・本多ダイエットリサーチ主宰)と酒井順子氏(コラムニスト)との対談──加藤氏注)

加藤氏コメント──「ここでは、女性の自立への志向、すなわち、自分の生き方を自己決定し、社会で発揮したいという志向を、標準化された『きれいな体』に近づくための自己コントロールへと、巧みに置き換えるような語り方がなされている。」
(注10)

要約:「視線の構造」が女性の身体を組み込むメカニズム
(注11)──

「第一に、より一層『きれい』になるための努力は、女性の場合は、異性の視線への意識だけからではなく、羨望や競争心といった、同性の視線への意識からも促される。……」

「第二に、視線の構造は、自分の身体が『美しい身体』の理想像から外れることへの感情を助長する。そのために、女性は『美しい身体』になるための努力へと促される。また『理想的な身体』から外れた場合、女性は強い自己嫌悪感を抱き、敗者として、この視線の構造に組み込まれる。」

「第三に、女性にとって、自らの『きれいな体』に魅了される異性の視線や、『きれいな体』を羨望する同性の視線を浴びることは、快楽として感じられる。……」

「第四に、女性は自立への欲望への置き換えにより、視線の構造へ組み込まれる。……今日女性は自立への欲望を煽られるが、社会的に力を発揮できる場は限られている。一方女性にとって自分の身体は、『きれい』になるべく自由に手を加えられ、自己コントロールの達成感が得られる領域であるかのように呈示される。このような状況の中で、「『理想的な身体』に近づくことが仕事でのランキングアップを導く」と錯覚させるように他者の視線が仮構され、女性は『きれいな体』に向けた自己コントロールへと誘導される。」

因みに、男性の場合、自分の身体に意識過剰になることには常にブレーキがかけられているという加藤氏の指摘
(注12)は見逃せません。別稿で展開する予定の「ハゲ論」(注13)でこの点を詳しく論じるつもりですが、男性の場合、体力や腕力以外の身体への自意識過剰は、‘男らしくない’と見なされていますが、逆に女性の場合、‘女らしい’かどうかは、特に公的な場面において、服装や化粧などの‘身だしなみ’を整えているかどうかで判断されますし、公的にしろ私的にしろ、身体への配慮を欠く女性はいずれにしろ、軽蔑される傾向にあります。(→おばさん論)

以上、加藤まどか氏の分析によって、男性の価値観の一方的な押し付けによってのみ女性の身体像が形成されるという見方は狭隘(きょうあい)に過ぎるという判断ができたわけですが、男性に比して女性は、特に身体イメージによって、自己のアイデンティティー(自己同一性・存在証明・拠り所)を確立せざる得ない状況にあるということも確認できたと思います。つまり、女性が身体にこだわるのは、身体によってしか自己のアイデンティティを確立できない状況にあるからだということ、いわば‘女性の身体への疎外’が、女性が身体にこだわる理由なのです。

浅野千恵氏は、著書『女はなぜやせようとするするのか』において、こう述べています。

「この社会において女性であるということは、かぎりなくその身体におしこめられてしまうことを意味しており、しかもその場合の身体は、女性にとってパワーのみなもとであるというよりは、他者からの評価や攻撃や欲望の対象であるという、かぎりなく疎外された身体なのである。」
(注14)

具体的には、次のような社会的意味が付与された‘身体’へと女性は疎外され、女性の‘主体性’が剥奪されているのだと浅野氏は指摘しています。敷衍(ふえん)するなら、いわば矮小化(わいしょうか)された‘観念的な身体’へと自己を限定することでしか、社会的に存在価値がないような現状に女性たちはおかれているということでしょう。

(1)「母性としての女性」──「女は子供を産むものとして運命づけられた存在として、女性の社会的役割を母性機能に限定し、女性の生き方や能力を制限しようとする考え方」。

(2)「娼婦としての女性」──「女性を『娼婦』『セックス』、あるいは攻撃対象としての『膣』そのものに還元して捉え、犯されたり、いためつけられたりすることが女性の本質的なありかただとする考え方」。

(3)メディアがつくりだす「人工的な女性身体像」──「マスメディアが流布する『よりよい女性身体像』は、自らの身体を『ふじゅうぶんな劣った身体』ないし、『改善すべき身体』だと女性に思いこませて、『ありのままの自分の身体』を受けいれたり、肯定したりすることを非常に困難にさせている。」

加藤まどか氏が析出したのは、男性の視線の対象になるという意味で(2)とも関連しますが、主に(3)のメディアの‘女性身体像’でした。さらに浅野知恵氏は、当然、‘母体’としての‘女性身体’を一番目に挙げています。

さて、さらにここで改めて、なぜ女性は身体にこだわるのか、あるいはこだわらざるを得ないのかという設問の解答として、スージー・オーバックのより包括的な見解を引用しておきます。女性がなぜ自分で月経を止めてしまったり、‘想像妊娠’をしたりすのか、あるいは‘理想体型’にあれ程こだわり、‘太った/痩せた’ということで一喜一憂しダイエットに精を出すのか、さらには‘拒食症’などの‘摂食障害’の9割がたが女性なのかという理由も理解できるようになるかも知れません。

「身体不安に対して女性が示す感受性は、概して女性の身体に与えられる矛盾したイメージや意味に対応している。正確に言うならば、社会通念の移り変わりによって、女性が個としての確固とした身体イメージを作り上げることは至難の業となる。女性がどのように自分の身体を理解し、体験するかは、彼女たちの外側にある文化的要因に関連する。また、一人ひとりの女性の身体に対する受け止め方は、時々刻々、日ごと週ごとにくるくるかわる。彼女が自分の身体をどのように感じるかはしばしば、まさにその瞬間に彼女が自分自身をどのように感じるかに影響を与える。(中略)多くの女性は、直接的な自己認識の感情と、そのときの、自分の身体に関する感情を切り離すことはできない。身体は、受容し得るもの、もしくは受容されないものとして知覚され、それが自己概念の基礎となる。(中略)彼女が身体を通じて見出す自己概念は、身体表現に影響を及ぼすほど強力である。」
(注15)

(注1)

なんつったって、ダイエットには恋愛が一番!
(注2)
上野千鶴子『スカートの下の劇場──ひとはどうしてパンティにこだわるのか』河出書房新社、162頁。
(注3)
上野千鶴子「『セクシュアリティの近代を超えて』」『日本のフェミニズム(6)セクシュアリティ』岩波書店、18-21頁。
(注4)
上野千鶴子『発情装置──エロスのシナリオ』筑摩書房、第一章「性愛、この非対称性なるもの」。
(注5)
上野千鶴子『差異の政治学』岩波書店
(注6)
ナオミ・ウルフ『美の陰謀──女たちの見えない敵』曽田和子訳、TBSブリタニカ、17頁。
(注7)
加藤まどか「『きれいな身体』の快楽──女性誌が編み上げる女性身体」『岩波講座現代社会学・第11巻 ジェンダーの社会学』
(注8)
同上、158頁。
キューバの境界線──顕わす身体/隠す身体」も参照。
(注9)
同上、161頁。
(注10)
同上、161頁。
(注11)
同上、164-165頁。
(注12)
「男性身体と女性身体の位置づけには格差があり、男性身体への配慮に関する記事や広告は、女性の場合よりもずっと少ない。しかし今日、若い男性の身体は、女性の視線の客体となりつつある。身体の清潔さをチェックするような女性の視線が語られることで、『清潔な身体』という理想像から外れることへの恐れが助長される。『異性にもてないぞ』というおどしによって、男性は視線の構造へと組み込まれる。一方、自分の身体に意識過剰になることにはブレーキがかけられ、『他者の賞賛の視線を浴びる快感』による身体への働きかけが促されることは、一般的ではない。しかし一部には、『かっこよさ』に共感する『仲間うち』の賞賛の視線を浴びるという快感を媒介にして、視線の構造に組み込まれるという現象も現れている。」同上、163頁。
(注13)
いわゆる‘ツルッパゲ’よりも‘スダレハゲ’の方が嫌われる事実を踏まえて、須長 史生『ハゲを生きる―外見と男らしさの社会学』勁草書房を参照しつつ論じたいと思います。
(注14)
浅野千恵『女はなぜやせようとするのか─摂食障害とジェンダー』勁草書房、210頁。
(注15)
スージー・オーバック『拒食症──女たちの誇り高い抗議と苦悩』新曜社、92-93頁。

(2003.5.28初出)


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